江戸川放水路と消えていったものたち

江戸川放水路は明治44年(1911年)の改修計画に基づき、大正5年(1916年)に着工、大正8年(1919年)に完成。
開削されて百年近いがその間に消えていってしまったものを紹介してゆきたい。

2010年1月11日 図を描き直した。その他文章の修正および増補。
2009年2月7日 調べなおした結果を元にページを全面的に見直しの上、改題。


行徳橋周辺のおおまかな位置関係図
図
現存しないものは赤破線で示した。

過去に存在したもの

行徳床固(行徳堰)

大正9年(1920年)12月15日に竣工。水面勾配が急な放水路の洗掘防止のため、放水路分派部(現在の可動堰とほぼ同位置)に石張りの床固が設置された。

昭和32年(1957年)の行徳可動堰建設に伴い撤去される。

普段、堰の上は水位が低いので、人間が渡っていたそうである。

行徳橋(初代)

大正7年(1918年)9月1日着工、大正11年(1922年)3月31日竣工。全長408.2m、総幅6.06m、実幅5.45mの木造橋。
現在「旧行徳橋」と呼ばれている橋は実は二代目。初代の橋は上の図のように、現行徳橋と新行徳橋の間に存在した。放水路開削前まで南北に繋がっていた内匠堀(水路)とほぼ同じ道を辿る。

末期(昭和20年代後半?)には橋の状態が悪化したため、隣に仮橋が建設されたらしい。国土地理院の国土変遷アーカイブの写真(USA-M389-162 昭和22年8月8日)では架橋らしきもの(西側)と行徳橋(東側)の姿を確認できる。

行徳橋(初代)、架橋共に撤去された正確な日時は不明だが、完成一年後の写真では既に姿を消していることから、初代は現行徳橋完成後に撤去されたと思われる。

現行の行徳橋に関してはこちらのレポートで取り上げている。

初代行徳橋のあったと思われる場所

右岸
右岸妙典側から望む。この右手にはポンプがある。ここから原木側堤防上の駐車場のようなところまで橋が架かっていた。

左岸
左岸原木側から望む。

東葛人車鉄道

東葛人車鉄道はその名の通り客車・貨車を人力手押しによって運行する鉄道で、明治42年(1909年)に鎌ヶ谷〜中山間が開業し、後の大正2年(1913年)に河原まで延伸してきた。延伸したものの会社は長く続かず、5年後の大正7年(1918年)に資金繰りの悪化に加え放水路の開削がとどめとなり廃止されてしまった。

人力とは言え東西線開通前に行徳に鉄道がやって来ていたことにも驚くが、さらに浦安への延伸も計画していたというから二重に驚き。
江戸川放水路の開削計画が既にあったのにも関わらず延伸するとは、経営が順調なら橋でも架けるつもりだったのだろうか?

中山〜河原までの路線(一部)めぐり

中山〜河原間の一部線路跡を辿ってきた。

左岸
江戸川左岸。線路はおおよそ江戸川に架かる送水管と共に対岸へ。

右岸
江戸川右岸。放水路開削前は漁協の桟橋あたりに道と軌道があったようだ。

土手下
上の写真からさらに進み土堤を降りたところ。当時の地形図では土堤下に軌道が敷かれているが・・・。

土手上
新行徳橋を過ぎた所。ここから行徳街道までは堤防沿いに進んでいく。

橋下
最後にこのあたりに河原荷扱い所があったと言われている。行徳橋があるために場所が把握がしにくい。

おわりに

100年も経っていないのだから少しくらい痕跡があるだろうと思っていたが、どれもはっきりとした遺構は見つけることができなかった。
河川の改修、鉄道、バイパスの開通、宅地造成等当時とは目まぐるしく周辺環境が変わっており、施設跡の位置特定でさえ容易ではないので苦労した。

参考資料

このページの作成にあたって、以下の資料を参考にした。

「市川市史年表」 市川市史編纂委員会
「行徳の歴史大事典」 鈴木和明
「行徳郷土史事典」 鈴木和明
「人が汽車を押した頃」 佐藤信之
「私たちの行徳今昔史・パート1」 本行徳フォーラム
「江戸川改修の記録 工事写真集」 関東地方建設局江戸川工事事務所
1:25000地形図 船橋 (T6,S7,S20,S28,S34,S40年)
USA-M389-162 国土変遷アーカイブ空中写真
「利根川改修工事概要」 内務省東京土木出張所
国土交通省関東地方整備局江戸川河川事務所ウェブサイト

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